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高知簡易裁判所 昭和40年(ろ)115号 判決 1966年7月08日

被告人 中尾成久

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は「被告人は昭和四〇年六月一日午後四時二三分頃、高知県公安委員会が道路標識によつて車両の最高速度を三〇キロメートル毎時と定めている高知県安芸市津久茂町六の二六番地附近道路において、前方の道路標識の表示に注意し公安委員会が最高速度を定めた場所でないことを確認して運転すべき義務を怠り、同所が右最高速度の定めのある場所であることに気付かないで、その最高速度をこえる四三キロメートル毎時の速度で軽自動四輪車を運転した。」というのであつて、右の事実は、被告人の注意義務に関する部分を除き、当裁判所の為した現場の第一回検証調書、検証現場における証人横田昌治、同山本紘三に対する各尋問調書、交通事件原票付属の司法巡査横田昌治の現認報告書並びに被告人の供述書の各記載を綜合してこれを認定することができる。

ところで被告人並びに弁護人は「当時本件現場に設置されていた道路標識は、自動車運転者としては容易にこれを認識し得ない状況にあつたので、その最高速度の制限されている事実は、全くこれを知るを得なかつた。」旨主張するので、以下これに関し検討する。

道路交通法は、道路における危険を防止しその他交通の安全と円滑を図ることを目的として立法されたものであるところ、同法によれば、車両が道路を通行する場合の最高速度は政令で定めるものとなし、公安委員会は、一定の区域内の道路又は道路の一定の区間内を通行する車両について、右政令所定の最高速度と異なる最高速度を定めることができ、この場合公安委員会は、政令の定めるところにより道路標識又は道路標示を設置してその速度規制の行なわれていることを表示すべく、その道路標識又は道路標示を設置するには、車両がその前方から見やすいように、かつ道路の状況に応じ必要と認める数のものを設置すべき旨定められているのである。

思うに同法が、本件の如き公安委員会のなす車両の最高速度規制の処分において、これを国民に周知せしめる方法として特に道路標識又は道路表示の設置を命じている所以のものは、殊に文字通り動的にしてしかも危険を伴う道路交通の安全等を期するためには、これら処分のなされている事実を、告示の如き観念的な記憶によらしめるよりも、それぞれその場所に設置された道路標識又は道路標示の如き有形的な直接人の目に触れる物体の表示するところによつて、容易にしかも的確にこれを知悉せしむるに如かずとして制定されたものと考えられ、かくて右の場合における道路標識又は道路標示の設置は、これにより表示された当該規制の行政処分の有効要件と解すべきである。さればこれが標識等の設置については、法令所定の要件を厳に具備することを要し、殊に本件の如き車両の速度規制にあつては、規制さるべき対象が、速度を以てその第一義的な機能とする自動車等の車両であるところから、進行中の車上より前方を一見して、道路上如何なる行政処分が如何に行われているかという事実を、素早くしかも容易に認識し得るよう設置しなければならないのである。それゆえ一定の時間的ゆとりを以て慎重に判断しなければ認識することができないような設置方法は到底許されないのであつて、前掲政令において「車両ヽヽヽがその前方から見やすいようにヽヽヽヽ」といつているのは、右のことを明言しているものである。

そこで証拠を調べてみるのに

第一前掲検証調書並びに証人横田昌治及び同山本紘三に対する尋問調書の各記載を綜合すると

一  本件現場は前記津久茂町を東西に通ずる国道で、本件当時以前より舖装されてじたものであるところ、車両の最高速度制限についての路面における道路標示は、その始まり地点附近には当時なにもなされてなく、同地点における右規制の表示は、専ら道路標識のみによつていたものである。

二  右道路標識は、同町西端の町はずれに在る志磨村保方住家の、北側を通ずる国道の北端沿いに設置され、その位置は、右住家の北西角から(国道を距てて)一四、二メートル、北東角から(同)六、九メートル、国道北端から北に〇、六五メートルの地点である。而して同地点に四角形の鉄柱を垂直に建て、該鉄柱の上部南西に面する部面に、直径約六〇センチメートルの円形の平面鉄板に、所定の方式により「30」なる数字によつて、車両の最高速度を三〇キロメートル毎時に制限する旨表示された規制本標識を、国道路面より約二、三六メートルの高さに取り付け、その下端に接してこれと同部面の鉄柱に鉄板製の矢印しの始まり補助標識が取り付けられている。

三  標識の取り付けられた鉄柱は、その下方が地中に相当深く埋設され地面に固着しているので、そのままの状態では、その位置を移動することはもとより、方向を変えることも困難である。

四  規制本標識は、その裏面を、左右の中央部が鉄柱に密着するよう固定してあるので、上下に屈曲するおそれは全くないが、円の大きさとの対比上鉄板が比較的薄く、これに裏打ちの如き補強もなければ、また縦の鉄柱と十字型に交差するような横の支えもないため、左右の面に対する強度性に稍欠け、加うるに設置後相当時日を経過し、その間風雨にさらされたためか弾力性がない。それゆえ通常の力量を有する人がその前面或は裏面に立つて、円板標識の左右両端に手をかけ前後に強く力を加えた場合、標識はその取り付けられた鉄柱の上下の線に沿い、前方に或は後方に折り曲げることができ、その屈曲した円板は自力ではもとの平面に復する弾力がない。

五  右道路標識以西の国道沿いには、人家その他視界を遮る物体がないのみならず、標識の位置並びに高さが前記の通りであり、その鉄柱への取り付け方向も前記の通り南西に面するよう設置されているので、西方国道上を東進してくる車両からこれを見た場合、もし標識板自体が屈曲して他の方向に面していない限り、一見まことに見やすい状況にある。

六  しかし本件速度違反取締り当日、これが施行の直前において、右標識が正規の通りの方向に面していたか否かを担当警察官が確認したか否かは、明らかでない。

七  なお本件当日すなわち昭和四〇年六月一日より後である同月末か或は七月初め頃、安芸警察署の警察官が現地に臨み、前記標識を点検した際、約三〇メートル西方から完全にこれを見ることができたが、東進中の車両からなお良くこれを見やすくするため、該警察官が本標識円板を曲げ直してその方向を正したとの事実があり、更にまた当裁判所の第一回検証当日警察官において、右標識円板(本件当時と同一のもの)が前記の如き状況であるの故を以てこれを取り外し、別個新品の標識板を取り付けて、その表示を明確にした。

八  右標識のある地点から、その東方にあたる、警察官の本件違反現認地点までは約四〇〇メートルあるが、その国道区間内には、車両の速度規制についての中間道路標識又は道路標示は、何等設置されていない。

との事実を認定することができ、更に

第二当裁判所の為した現場の第二回検証調書、検証現場における証人尾原友助に対する尋問調書の各記載、押収にかかる証第一号乃至第五号、第七号、第一一号乃至第一三号の写真及び被告人の当公廷における供述を綜合すると

一  本件当日から七日位を経た昭和四〇年六月八日頃、被告人は写真師尾原友助を伴つて現場に赴き、本件道路標識の状況を写真撮影した。

二  右写真に基いて、撮影当時の現場における本件道路標識の状況を調べた結果によれば、規制本標識はその当時は殆んど真南に面していたことが認められ、従つてこの場合これを西方国道上を東進してくる車両より望んだならば、円板標識は、その円周が上下の直線となつて見えるだけで、正面は全く見ることができず、それが如何なる標識なのかは、その南方すなわち正面近くにまで進行してきて、左北側を見て初めてこれを知り得る状況にあつたものである。

なお右の場合においても、始まりの補助標識のみは、西方国道上から一見容易にこれを見ることができる状況にあつたものである。

との事実を認定することができる。

さて以上の各事実に基いて本件道路標識の適否を按ずるに、始まりの補助標識についてはこれが不備を疑う余地はないけれども、速度規制の本標識にあつては、その設置が法令の定めに適合してなされていたということに対し、甚だ疑いをもたざるを得ない。すなわち標識板の強度並びに弾力性がさきに見たとおりであるのゆえに、街頭でまま見受けられるような、心なき徒輩の悪戯等によるか、或はまたその他何等かの力の加わる等のことにより、これが左右に屈曲してその方向の変ぜられるおそれを多分に包蔵していたことが推認され、現に本件の約七日後においては、その方向は殆んど真南に面していたのであるから、この事実に徴しても、右標識が常に一定の正しい方向にのみ面していたものということはできない。

もとより或る時点において標識板の方向に変動があつたからといつて、これを常時の場合にあてはめて論ずることは当らないけれども、既に見てきたように、本件速度違反取締りの施行直前、規制標識の設置が適正になされていたか否かを警察官において確認したか否かは明らかでないのみならず、他に右標識の設置が前方から見やすいよう適法になされていたことを積極的に認め得る証拠は何等存在しないのである。

尤も始まりの補助標識のみは異状なく、西方国道上から望んだ場合、一見容易にこれを見ることができた筈であるから、当時仮に本標識板のみが西方の国道上から見やすくない方向、すなわち南面するか或はその他の方向に面していたとしても、もし被告人が当時極めて慎重な態度で臨み「補助標識が見える限りは、何等かの道路規制等についての本標識がなされているであろう」との点にまで思慮をめぐらし、注視を怠らずして徐々に東進していたならば、その真南附近に接するにつれ、規制本標識の設置されていることに気付いたであろうことを推断するに難くないのであるが、然し道路交通法は車両の運転者に対し、そのような場合にまでも標識の確認を要求しているものとは、到底考えることができないのであつて、このことは既に前に明らかにしたところである。

してみると本件においては、一応道路標識は設置されてはいたけれども、これが適法になされていたことを認めるに由がないから、従つて畢竟速度規制についての適法な道路標識の設置はなされていなかつたものというの他はない。それゆえ被告人がかかる不完全な標識を見落し、同地点以東の国道が車両の最高速度を三〇キロメートル毎時と制限されていることに気付かずして、その速度をこえる速度で軽自動四輪車を運転通行したとしても、右は何等車両の最高速度違反運転の罪を構成しないものというべきであるから、刑訴法三三六条に則り無罪の言渡しをする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判官 市原佐竹)

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